平成18年3月18日(土)
春の彼岸法要
お彼岸は、戻り寒波の中。
 
雲が厚く、泣き出しそうな空。「春」近しといえ、サクラの蕾も縮みこんでいるだろう。予報は「夜は雨」だが、今年は土曜日が「彼岸の入り」に当るため、幼児や小学生の手を引く檀信徒さんの姿が目立つ。
「寒いね、寒いね!」「お線香あげるよ、ネ」「おじいちゃん、きっと喜ぶよ!」語り聞かせながら手を引いていく。うなずく子供の鼻があかい。
「先にお墓の方に回ったの!」ストーブに手をかざしながらの会話が弾む。
「煙たいねぇ」とは位牌堂でのこと。香が子供にはきつく鼻をつまんだりしている。
突然「チン!」と鉦が響き ♪草のいおりに、とご詠歌が始まる。
ご近在の和尚様方が控える中、方丈さまが入堂される。香を炊き三拝、全員が続く。お密湯などをささげる「献湯菓茶」を終え三拝する。堂宇いっぱいに般若心経を唱え回向文が読誦、一同三拝にておつとめが終わる。
 続いて彼岸法要に移り、檀信徒も併せて修証義第4章「発願利生」と、第5章「行持報恩」を唱えた。
『発願利生』は、「仏道を求める心を起こすというのは、自分がまだ悟りきっていなくても、他の人々を悟りの世界にわたしてあげようという願いを起こして、努力すること」(『曹洞宗』東 隆真著より)で始まり『行持報恩』は、「仏道を求める心は、多くはこの国土で私たち人間の身体で起こすのである。このご縁に自分が願って生れてきたと思い、ご開祖、ご開山やご先祖に続き、お釈迦さまにめぐり会えた幸せを喜ぼう」から、説かれている。
回し香炉が戻り、ふたたびご詠歌が流れる。
座があらためられ鬼頭尚彦老師(永平寺名古屋別院副監院)が入堂。法話をいただく。要職に居られてご多忙のため、ご来山は数十年ぶりとなつかしまれる。
 大正末のお生まれと伺ったが、その若々しい声と所作は一気に座を和らげ、聴く人びとを捉えた。次の言葉が待ち遠しい雰囲気が生れる。乗り出す耳目。
 お彼岸の供養とは、「自分と言う人間の存在に感謝することですよ」と優しい一言。「ひとりの人間として命を頂いていること」の不思議さ、尊さ。20億年前に「命」は生れたが、人の命の年齢は計り知れない。やがて先祖になるこの命だが、「生かされているんだ」の感謝の気持ちを彼岸の供養にしましょう、と。
 その供養とは、「今ある中で最大の努力をすることです」と光明皇后のなされた慈悲の心の行いを披露。仏教の究極の目的は「抜苦与楽」=苦しみから救い福楽を与えることゆえ、皇后が施しを続けられ、自分の喜びとしたように「やり通す求道の気持ち」が大切と説かれた。
また、生きざまだけが残るのが人生、湯川秀樹が言われたように、「一日生きることは一日進むこと」である。昨日より今日、今日より明日、と前向きに求めて生きましょう。決して、「今日生きることは、病院へ行くこと」ではありませんよ!と明るく笑われ話を閉じられた。
 3時15分。夜分は雨、の予報は当らず外は早くも降り出している。しかもブルッとくる寒さ。しかし、傘を片手に帰られる皆さんの背中は伸びて、丸くはなかった。
法話を伺ったからか、それともご先祖さまと話をしたせいでしょうか?

うとうとと 彼岸の法話 ありがたや 
                         河野静雲