令和5年2月11日(土)
萱垣稲荷荼枳尼真天 ご祈祷会
稲荷大祭、奉納茶会
 マスク着用など、コロナ感染対応に関心が高まる中、お稲荷さまのご祈祷会が開催された。お店が集まる楽市は中止となったが、稲荷大祭の福引、奉納茶会は開催された。
 前日の冷たい雨に打って変わり、暖かく ♪「春は名のみぞ…」♪と口をついたが、おっと風も無いな、と口を閉じた。稀な、風も無く静かな朝を迎え、準備する人々の動きは軽やかで会話も弾みがちであった。
 予定通り、10時から福引も茶会も始まり、昼をはさみ、午後2時過ぎには盛会のうちにお開きとなった。スピーカーから歌が流れ、人の笑声、どよめきに包まれるいつもの楽市の様子と違い、人とのやり取りもゆっくりと交わされる静かで落ち着いた稲荷大祭であり、茶会であった。

 午後3時、銀地に金の模様もまばゆい袈裟をまとった方丈が送迎、侍者、などの僧を従え稲荷堂に上る。いつも通りの威儀ある正装で、時刻も計ったように毎々午後3時である。
 稲荷堂では、般若心経に続き早いテンポで真言が読まれ、転読もされた。みなぎる緊張感、そして粛然さが堂内に満ちる。いつものお供えの「祝餅」、「投げもち」を待つ人々の声もなく、周辺は静寂、お経の響きのみが山内を覆っている。
 そもそも当山のお稲荷さんは長野県飯田市鼎(かなえ)の古刹・願王教寺(法苑院萱垣山願王教寺)さまから勧請し、大正10年9月に建立されたと伝わる。発端は、萱垣稲荷の信者である有泉とめさんと篤信家の新村源七さんが発願、お堂をも寄進されたと石碑に刻まれている。
 南信州、飯田市の通称「萱垣(かやかき)山」へは数十年前、当山の方丈も表敬訪問し、先方さまからも、護寺会の皆様が当山へお詣り頂いたという交流がある。飯田市はさほど遠くなく、近年道路事情も良くなっているので、皆様のお出掛けもお勧め申し上げたい(萱垣山願王教寺…飯田市鼎(かなえ)1724番地)。

 寒巖派(かんがんぱ)と荼枳尼真天(だきにしんてん)
 ご存じの通り、当山は寒巖義尹(かんがんぎいん)(道元禅師の直弟子)の法脈に連なり、華蔵義曇(けぞうぎどん)が開かれた普済寺の末寺にあたり、寒巖派(又は天皇の皇子から法皇派)と称されている。
 寒巖禅師が2度目の渡宋の帰路、海上にて荼枳尼真天の感得*(一説には海難事故を救われたともいう)を頂き、生涯その感激を護法の守護神とあがめ、ねんごろに弟子に伝えて今日に続く。かの豊川稲荷さんも同じご神体であり、したがって、かの大岡越前の信奉したのも荼枳尼真天である。
 さて、当山はなぜ萱垣(かやかき)かというと、勧請元の願王教寺の前身が領主より賜った先が「萱垣」という地名であったからであり、ご本体は正しく荼枳尼真天さまである。
*感得…心理や奥義などを心に感じて悟ること。