令和6年2月11日(日)
萱垣稲荷荼枳尼真天 ご祈祷会
稲荷大祭開催される
 コロナ禍に中断された期間を含み5年ぶりの開催となった大祭は、天気予報や人々の予想までも裏切り?天林寺山には、冷たい風が吹く冷たい朝の幕開けとなった。
 久方の準備に戸惑う主催事務局に比べ、慣れた手つきで開店を急ぐ店主の手際よい動きが頼もしい。「お久しぶり」「良かったねぇ晴れて…」と笑顔で声を掛け合いながらも手は休まない。後ほど聞いた初参加のお店の方が「良い人が多くて仲間になりたい…」とつぶやいていた。「会場の雰囲気」の仲良しぶり(・・・・・)が自然に生まれているようだ。四半世紀に及ぶ足跡か、それとも禅寺の境内という、静かな場所が生み出す所産であろうか。
 予定の9時30分、事務局の敏正師の紹介で天林寺方丈の文元和尚様が開会のごあいさつに立たれる。特に能登半島地震へのお見舞いと募金に触れられる(本堂横に募金箱が設置された)。

 すっかり整ったお店からは威勢の良い呼び込みが発せられ、10時からの福引や茶会も始まった。冷たい風を避けるかのように小走りに物影を選んで移動する人々…いつになく風が冷たく寒い。
 10時半、大道芸の田中さんが動き出した。コスチュームと前口上に人の耳目がとまる。毎年新しい技を開発?し続け、観る人を楽しませよう!と心くばりをする人だ。
 総じて、一部の店には人が重なり商品の動きも見て取れるが、全体の活気が今ひとつ。人出が遅く、特に子供連れが少ない。「寒い朝のせいかなぁ」と思ってみたりする。
 
 昼をはさみ、冷たい風はおさまらず気温も上がらない。いつものような人の出人の波も大きくはならず、盛り上がりに欠け手持ちぶさたの店もある。ただ、お客様には好都合?で、店主とゆっくり会話ができ品が選べる。
 新規参加の4店に聞いてみると、
・お客さんの目が肥えていて、いいものを選んでくれる。充分説明できた。
・メイン商品は売り切れ、来年への作戦は出来た。また来たい。
・こんなに寒いとは思わなかったが、子供さんが少なかったですね。……などであった。
 また、稲荷講のお世話人による「福引会」は本堂で、裾さばきも鮮やかに「お茶会」は天真閣にて催され、それぞれに訪れる人々は楽しげで満足感が見て取れた。

 午後3時、銀地に金の模様の袈裟をまとった方丈が僧を従え稲荷堂に上る。いつも通りの威儀ある正装で、時刻も決まっている。
 稲荷堂では、両脇に僧が居並び方丈は正面に端座される。般若心経に続き早いテンポで真言が読まれ、転読もされた。いつものように、お供えの「祝餅」が箱に重なり出番を待っている。

 そもそも当山のお稲荷さんは隣県飯田市鼎(かなえ)の願王教寺(法苑院萱垣山願王教寺)さまから勧請し、大正10年9月に建立された。
 また、ご存じの通り当山は寒巖義尹(かんがんぎいん)(道元禅師の直弟子)の法脈に連なり、華蔵義曇(けぞうぎどん)が開かれた普済寺の末寺にあたる。寒巖禅師が2度目の渡宋の帰路、海上にて荼枳尼真天の感得*(一説には海難事故を救われた…ともいう)を頂き、生涯その感激を護法の守護神とあがめ、ねんごろに弟子に伝え今日に至っている。寒巖派の妙厳寺・豊川稲荷さんも同じご神体であり、屋敷まで提供し信奉した、かの大岡越前も荼枳尼真天の信者である。
 さて、当山はなぜ萱垣かというと、勧請元の願王教寺さまの前身が「萱垣」という地名に在ったからであり、ご本体は正しく荼枳尼真天さまである。*感得…奥深い道理を悟ること。
 
尚、能登震災への募金箱には2万円余が寄せられ、後日事務局から中日新聞社に委託された。当日、賛意を頂いた皆さま方のご真情に心より感謝申し上げます。