令和6年4月11日(木)
菊川市 富田の善福寺 森田祥雄さまがご導師
ご開山532回忌法要
ちらほら舞い散る桜の下、風もなく…

 風は強くなくぽかぽかと温かい。それでも満開を過ぎた境内の桜はゆっくりと花びらを散らす。さらに昨夜の強い夜風のせいか、山門を越え参道の途中まで処々に落花の帯ができ、全山の桜が盛りを越えたことを示している。
 ご開山・傑堂義俊禅師さまの532回目の遠忌が営まれるこの日、ご導師を勤められるのは菊川市の玉鳳山善福寺の森田祥雄ご住職。併せて当山2世太春元甫大和尚さまの511回忌法要も導かれる。
 
500余年を回想、感謝・報恩を誓う
 須弥壇にご開山堂から転位された、傑堂義俊大和尚の座像が鎮座されている。
 天林寺総代山下さま、お世話人4名さま方が須弥壇に向かって右の間、長駆菊川からご参列の善福寺総代さま方5名が左の間に座られている。続いて関係寺院の和尚さま方が粛々と入堂、席を定め対面し威儀を正される。時をおかず、殿鐘が鳴らされる。定刻11時であり堂内に緊張が走る。

 鐘と遠くの鉦(かね)が呼応し、やがて引(いん)磐(きん)の音が近づき送迎、天林寺方丈、導師の善福寺森田老師、侍者らの順で入堂される。
 天林寺方丈は須弥壇の手前を右に折れ、東室中(須弥壇向かって右手)に端座される。皆の位置が整い、導師は直進、焼香される。
 続いて祥雄老師は須弥壇のご開山像を仰ぎ丁寧に一礼。歴代のご住職さまにもご挨拶をされた。ねんごろに献湯菓茶を終え、焼香。さらに大衆九拝から参同契・宝鏡三昧の読経、そして参列のご両寺総代さま方の焼香までを粛々と進められ退堂された。  

 開山忌とは、ご開山さま…傑堂義俊大和尚さま…のご功績をたたえ、ご恩に報いることを誓うと共に、今日に続く代々のご住職さまへの謝恩の法要である。
 当山では傑堂禅師さまが入寂されたと伝わる4月11日に営まれ、今回で532回目を迎える。      
 従前は代々の天林寺住職が導師を勤めていたが、平成22年(2,010年)より当寺につながる寺院さまに導師をお勤めいただき、総代さま方、寺族の皆さまにもご臨席をお勧めしている。それは、ご開山から今日に引き継がれている法縁への感謝と自覚の下で、更なる精進を誓う法要として大切に継続されている(ちなみに善福寺の先代ご住職は10年前にご導師を勤められた)ゆえんでもある。

道元禅師、ご開山さまにつながる、あなた
 仏教の教えのつながりは「法統」と呼ばれる。ご開祖道元禅師さまからの教えは、寒巖義尹→鉄山士安→東洲至遼→梅巌義東→華蔵義曇→傑堂義俊=ご開山さま、と続き、歴代住職さま方を経て、現在の32世文元方丈、そして私どもにも伝わる。
 伝承の基本は経本、法話などにも依るが、法要など儀式を営むことも、大切な伝承方法とも考えられ、本日のように500余年を経て今日に続く所作ひとつを見ても、時を越えて真が伝わっていく。その営みは、勤める僧も会する人もご開山につながる者であり、共に感謝と精進を誓う心が繋がり、互いの存在が確認できる機会でもあります。
 
傑堂義俊さまは、紀州・和歌山のお生まれ…、
 ご開山さまは、応永31年(1424年)紀州の熊野で誕生され、普済寺を開かれた華蔵義曇大和尚(1375~1455年)に師事されました。
 応仁の乱の40年前、文安2年(1445年)天林寺の基となる、亀鶴山万蔵院を開創。その後、請われて渥美半島にも布教の足を延ばされ、愛知県田原市の霊松山常光寺(1468年開山)をはじめ数か寺を開かれ、曹洞宗発展の礎となられました。本寺の普済寺住職も3度勤めましたが、1492年に示寂(逝去)された、と伝わっています。