令和7年4月11日(金)
御前崎市 比木の
正福寺東堂 山田康成さまがご導師
    ご開山533回忌法要 
ちらほら舞う桜花を横に見て、急ぐな…と
 小寒い朝、陽風あふれる陽、予告にない雨…遅い歩みではあるが、確かに春が近づいているのは実感できる。満開を過ぎた境内の桜もゆっくりと花びらを散らし始めた。巷ではすでに盛りを越えたことは承知だが、不純な日も多い昨今「おーい、桜よ、もう少しゆっくりしてよ!」と伝えたい。
 ご開山・傑堂義俊禅師さまの533回目の遠忌が営まれるこの日、ご導師を勤められるのは御前崎市の正福寺東堂の山田康成老師。併せて当山3世満室長圓大和尚さまの511回忌法要も導かれる。
(山田老師は、天林寺先々代榊原泰延大和尚のお弟子・弘道大和尚のご子息で、ごく近い法類)
530余年を回想、感謝・報恩を誓う
 須弥壇には、傑堂義俊大和尚の座像が鎮座されている。
 天林寺総代鈴木利幸さま、お世話人さま方が須弥壇に向かって右の間に控えられている。続いて関係寺院の和尚さま方が粛々と入堂、席を定め対面し威儀を正される。時をおかず、殿鐘が鳴らされる。定刻11時であり堂内に緊張が走る。
 時をおかず、鐘と遠くの鉦(かね)が呼応し、引磐(いんきん)の音が近づき送迎らを従え、天林寺方丈、導師の正福寺東堂山田老師、侍者らの順で入堂される。
天林寺方丈は須弥壇の手前を右に折れ、東室中(須弥壇向かって右手)に位置され導師は直進、焼香される。
 続いて導師の康成老師は須弥壇のご開山像を仰ぎ丁寧に一礼。歴代のご住職さまにもご挨拶をされた。ねんごろに献湯菓茶を終え、焼香。さらに大衆九拝から参同契・宝鏡三昧の読経、そして参列の総代さま方の焼香までを端厳と導かれ退堂された。   

 開山忌とは、ご開山さま…傑堂義俊大和尚さま…のご功績をたたえ、ご恩に報いることを誓い併せて、今日に続く天林寺代々のご住職さまへの謝恩の法要である。
 当山では傑堂禅師さまが入寂されたと伝わる4月11日に営まれ、今回で533回目を迎える。      
 従前は天林寺・現住職が導師を勤めていたが、平成22年(2,010年)より当寺につながる寺院さまに導師をお勤めいただき、総代さま方、寺族の皆さまにもご臨席をお勧めしている。それは、ご開山から今日に引き継がれている法縁への感謝と自覚の下で、更なる精進を誓う法要として大切に継続していくゆえんでもある。

道元禅師、ご開山さまにつながる…「あなた」
 仏教の教えのつながりは「法統」と呼ばれる。ご開祖道元禅師さまからの教えは、熊本・大慈寺開山寒巖義尹→鉄山士安→東洲至遼→梅巌義東→華蔵義曇→傑堂義俊=ご開山さま、と続き、天林寺の31代住職さま方を経て、現在の32世文元方丈、そして私どもに伝わっている。
 伝承の基本は経本、法話ではあるが、法要など儀式を営むことも、大切な伝承方法とも考えられ、本日のように530余年を経て今日に続く所作ひとつを見ても、時を越えて真(まこと)が伝わっていく。その営みは、勤める僧も会する人もご開山につながる者であり、共に感謝と精進を誓う心が繋がり、互いの存在が確認し合える機会でもあります。
 
ご開山、傑堂さまは、紀州・和歌山のお生まれ…
 ご開山は、応永31年(1424年)紀州の熊野で誕生され、普済寺を開かれた華蔵義曇大和尚(1375~1455年)に師事されました。
 応仁の乱の40年前、文安2年(1445年)天林寺の基となる、亀鶴山万蔵院を開創。その後、請われて渥美半島にも布教の足を延ばされ、愛知県田原市の霊松山常光寺(1468年開山)をはじめ数か寺を開かれ、同地でも曹洞宗発展の礎となられました。本寺の普済寺住職も3度勤めましたが、1492年に示寂(逝去)された、と伝わっています。