草創のころ
傑堂義俊(けつどうぎしゅん)禅師が、文安二年(1445年)に引間城の麓に亀鶴山万蔵院を構えたのが、当寺の始まりとします。場所は現在地より南であり、お城の鬼門にあたる所、とも言われています。
いまからざっと555年前、嘉吉の乱の直後、応仁の乱直前の国内が混雑していた足利時代に遡ります。
広沢山普済寺を開いた、華蔵義曇禅師の高弟である傑堂義俊禅師は、当寺の基礎が整うと、さらに布教のため渥美半島に常光寺(渥美町)を開くなど積極的に活動され、同地で入寂されました。(1489年)
師の華蔵禅師は肥後の国の出身であり、熊本の大梁山大慈寺の開山、寒巌義尹禅師の法系に連なるお方であります。
寒巌派(皇子であるとの説から法皇派)といわれる所以であり、また、普済寺十三門派と称されるのは、華蔵禅師の高弟十三師が開いた寺院の事を指しています。
最近、大慈寺様より寒巌禅師の700回忌のご案内を頂きましたが、法系の確かさと共に歴史の重みを実感されられております。

草創のころ  その2
当山の開山、傑堂義俊禅師は応永三十一年(1424)紀州熊野で生まれました。やがて普済寺に入り華蔵義曇禅師のもとで修行いたします。嘉吉三年(1443)十月二十二日に『師、義曇和尚ノ御前ニテ伝授ナリ』(常光寺年代記より)と、法統の伝授を受けました。
この二年後の1445年、当山の前身、亀鶴山万蔵院を結びました。記録をおっていきますと、齢二十二才の時であり、京と関東との政争が続く中、将軍は空位、各地でも一揆が起こり、遠江の地もおだやかならぬ日々でした。
しかし、傑堂禅師の徳を慕う人は日を追って増し、ひとびとの帰依する哀心はやがて報謝となり、いよいよ堂宇も整って参りました。
ところが、布教の心篤い禅師は礎の固まった当山を法嗣の元甫(当山二世)に譲り、自らは三河国渥美の地に赴き、常光寺を開きました。その末寺は、渥美半島から海を渡り志摩の島々にまで拡がり、曹洞禅の開祖と称されました。
文明十三年(1481)弟子の竹印光忠に常光寺を譲り、和地(渥美町和地)に隠遁。死期を覚った延徳元年(1489)同地に掘った穴に入り、食を絶ち、鉦を打ちながら入定された(渥美町史)と記されています。
過日、当寺の方丈も現地を訪れお参りされていただきました。

草創のころ  その3
普済寺を開創された(1428年)葦蔵義曇禅師の法嗣・傑堂義俊禅師は、1445年に亀鶴山万歳院を開山、天林寺の基を創った。その後、渥美郡の常光寺を開き、同地に於いて示寂している。今から五百十年前、ちょうど浜名湖が海と通じる十年ほど前のことである。
その間、禅師は戦国期の中にも拘らず、布教につとめ暫くして亀鶴山大安寺を改め、堂宇が整うとさらに亀鶴山天徳寺と改号、後を二世元甫に委ねた。
永正八年(1511)。三世長圓は天徳寺を現在地に移し名実共に礎を築いた。しかし、世は群雄割拠する戦国時代、かの三方原合戦(1572)にては曳馬城が、近い故に大きな被害を被り、一時は井伊谷に避難するほどであった。
時は移り四世宋寅大和尚の天正十三年(1585)、現在の山号・寺号でもある真徳山天林寺と改めた。
傑堂禅師が開いた亀鶴山万歳院から四度の寺号改称があり、百四十年の年月が流れていた。この年の翌年、家康は住み慣れた浜松城を去り、駿府城に移った。世は小康状態、天下は秀吉の下にあった頃のことである。

草創のころ  その4
前回寺号が真徳山天林寺と改まったことを紹介した。ところが、「曳馬拾遺」(杉浦国頭著)には寺号改変にまつわる怪奇事件があったと伝えられている。
寛永(1624年から44年)の昔、天林寺の森に黒装束に身を包んだ一団が境内を徘徊、縁に上り、果ては本堂の扉を破り器物を手当たり次第投げ出すなどの狼藉を働いていた。毎夜続く悪行に法師の多くはすっかり怖じ気づいて為す術を知らず、本堂の隅に小さくなっているだけであった。
意を決し、中の力自慢の法師が一人、薙刀を手に立ち向かった。押しつ押されつ犀ヶ崖のあたりまで追い詰めたが夜明け頃になると姿を消してしまった。そんな騒ぎが幾夜も続き、里人たちも捨て置けず待ち伏せすることになった。ところが、賊たちは物を壊すだけで盗みはせず、明け方になると森や林に逃げ込んで見えなくなる。これは正しく狐狸の仕業ではないか、と付近一帯の山狩りをすることにした。すると案の定、手負いの狐が多数見つかり騒ぎも決着した。そして、狐の霊を払うため寺号を改めた、と書かれているが、審議のほどはわからない。いずれにしても天林寺がうっそうとした木々の中にあり、犀ヶ崖まで森や林が続いていた頃のお話である。

草創のころ その5
寒巌派・普済寺十三門派
天林寺が普済寺を本寺と仰ぎ、十三門のひとつであることは周知のことです。
ところが、御開山の傑堂義俊禅師はじめ天林寺の住職が、普済寺のご住職も兼ねてお務めになることがあったのです。と申しますのは、普済寺御開山・華蔵義曇禅師のご遺志で、法嗣である十四か寺の住職が「輪住制」=住職が順次に交代する制度、をとっていたからです。それは華蔵禅師の示寂から明治五年まで400年余の間、規則正しく続き、延べ414人が務めています。ご存知の方も多いかと思いますが、その十四か寺をご紹介しておきます。
円通寺 名古屋市    楞巌寺 刈谷市
新豊院 三方原町    龍泉寺 飯田町
万松寺 岡崎市     宝鏡寺 都留市
妙巌寺 豊川市     福王寺 磐田市
法蔵寺 赤羽根町    宿蘆寺 庄内町
常光寺 渥美町     西来院 広沢
宗源院 蜆塚  そして当・天林寺です。
ご一門ですから、いわば親戚寺のようですね。どうぞお近くにお出かけの節はお参りください。
また、右記の中で常光寺さんは同じご開山ですから兄弟寺とでも申しましょうか。